おはな日記(14) by Ryu

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Written;2003/04/22 Ryu---Mali---

●Mali <雑感>
《Bamako~J'enne》
バマコ出発
◇ケンちゃん、ユーコさん達とまた合流して、今度は「Bamako~Dogon」までの観光をいっしょにすることになった。西アフリカでも、とくにこの地域は海外からのツーリストも多く、ハイライトといえる。そのぶん、人がすれていてやっかいなトラブルに出合う率も増えるのだが・・・。とにもかくにも、2003年3月15日午前11時、日本人4人組のバイクツーリストが「Bamako」の街を出発した。

◇最初の目的地「Djenne」に到着。ここは、ニジェール側の中州にある街で、宮崎駿氏のアニメにでも登場しそうな形をした泥で造られたスーダン様式のモスクは、世界遺産にも登録されている。その日は月曜市が開催されていて、遠くや近くの村々から派手な布地を纏っておしゃれした地元のおばちゃん達がわんさか来ていて、街は人、人、人でごった返していた。モスクの前の広場には、トマトににんじん、きゅうりに玉ねぎ、派手な布地があると思ったら、その横には日曜雑貨やラジオにラジカセなどが、足を踏み出す隙間もないほどに並べられている。ボク達は、その市場の中を人をかき分け、トマトをまたぎ、寝てる子どもの頭を踏まないように注意して、ぐるぐると見てまわった。

ジェンネの月曜市

《Djenne~Bandiagara》
◇自分たちの伝統宗教を守るために、ムスリム(イスラム教徒)の布教を逃れて「Bandiagara」の断崖の下に逃れていったドゴン族の人たちは、ここでも獣たちから身を守るために、この断崖の中腹に住居を設け、穀物倉庫をつくっていった。1930年代、フランス人の民俗学者がこの地に訪れ共に暮らし、そして、まとめたドゴン族の人たちのもつ世界観を発表したとき、西洋社会は衝撃を受けたという。

以上が、ボク達の持ってきているガイドブックに書かれたことを要約したもの。そして、そのガイドブックには、他にこう書いてある。「ドゴン巡りをするなら、まずはガイドが必要」。「Bandiagara」に着いてボク達はこのガイド達にウンザリするほど付きまとわれ、ありもしないドゴン観光の嘘のルールを嫌というほど聞かされた。

*バイクもしくはドゴン村までのトランスポートを確保できた旅人の方々へ。ドゴンはガイドなしでも、ぜんぜん行けます。村のしきたりと、村での注意はその村にいるガイドで十分。これだけツーリストが訪れるドゴン村がなかなか豊かになれないのは、国の政策にも問題がありますが、ツーリストがガイドに対してお金を支払うため、その村に十分還元されていないからです。儲かっているのは、ガイドとその上前をはねる国だけかも・・・。

《Bandiagara~Dogon》
◇「Bandiagara」でうんざりするほどガイドに付きまとわれ、そいつを振り切り、やっと辿り着いたドゴンの最初の村「Djiguibombo」。しかし、ここでもフランス人ツーリストに付いてきていたガイドに「俺の弟をガイドに雇わないと、ここから一歩も外に出さないぞ!」と本当に吐くかと思うほど気分の悪いことを言われる。

ボク達の中で唯一フランス語ができると認知されてしまったちびっこは、その通訳にクタクタ。ケンちゃんは話す気もないといった様子でだんまり。ユーコさんはとうとう切れて、こんな宿出ていってやる!とえらい剣幕。ボクはアホらしくなって、近くの売店を覗きにでも言ってくると奴等を無視して外に出た。

5~6人の子供たちが、ボクの姿をみるなり、いままでそれぞれ勝手に遊んでいたくせに近寄って絡み付いてくる。あの馬鹿ガイドより相当ましだとじゃれて遊んでいると、一人の女の子がボクの手を引いて店の中に入り、飴玉を指差しボクの手をギュッと握って離そうとしない。観念して、ポケットから100CFA(約20円)を出して店のおばちゃんに渡すと、その代わりに飴玉を10個ほどくれる。いつのまにか、店の入り口は子ども達で塞がれていて、人数もボクが来たときの倍になっている。〈これじゃ、飴がたらないなぁ〉と、またポケットから100CFAをしぶしぶ出し、おばちゃんに渡しては、その代わりに飴玉を貰う。

こんな他愛もないやりとりを、「Djiguibombo」に滞在した3~4日間、ずっと毎日繰り返し子供たちと遊んでいた。そして、2日目か3日目のある日、このやりとりの一部始終を見ていたユーコさんに、ボクは「ムッシュ・ボンボン」と名づけられた。

ジキボンボの子どもたち バール

◇「Djiguibombo」にしばらく滞在した理由は、「明日やる」。「今日は必ず」。と言っては全然まったく始まらない「仮面の祭り」を待っていたから。その祭りをやっと見ることができた。動物や雲、月に太陽。自然界にまつわるモノをモチーフにした仮面をかぶった男達が、独特の太鼓のリズムで右に左にと、飛んではもどり、もどっては飛んでとステップを繰り返す。これがドゴンのアニミスト達かとボクは、全身に鳥肌を立てながら、ただただじっと見つめていた。

仮面の祭り

●ちんちんガブリエル
ドゴンに「Teli」という村がある。

そこの「Bandiagara」の断崖の中腹に建てられた倉庫群は、特にもうすぐ沈んでしまいそうな夕日がそこにあたって、ますますオレンジ色に見える頃がもっとも美しく〈ああ、ドゴンだなぁ きれいだぁ よく、ここまでこれたなぁ〉と思わず呟いてしまいそうになる。

その「Teli」村にボク達は、ケンちゃんとユーコさんを見送ってから、さらにもう1泊したから、合計4泊もしたことになる。きれいな村で、断崖の倉庫群も最高だったが、日中のくそ暑いのと、そこの飲み水に独特の臭いがあるのと、ご飯の味付けだけは、どうやっても好きにはなれなかった。なのにそれでも、どういう訳か4泊もした。

この村には、日本人の手によって現在も工事中ではあるが学校が建てられている。このあたりにしては、石造りでコンクリートもたっぷりと使われた、たいそう立派な学校で、これならしっかり勉強できそうだとこっちまでワクワクしてしまう。入り口には「Dogon 西アフリカクラブ JAPON」とあって、どういう経緯でそうなったのか理由は定かでないが、この学校の完成を見ずに1人の日本人と1人のマリの若者が亡くなったと書いてある。そして現在、この工事はもう一人の日本人の手によって受け継がれている。

そんなわけだから、この村の対日感情はすこぶる良い。小さな小さなこどもから、大きな大きな大人まで、「ヨク イラッシャイ マシタ」、「コンニチハ」、「オハヨウゴザイマス」と日本語を話す。なかには、やはり若くて物覚えがよく語学に堪能な若者のいて、「アナタ アタマ ダメデス」、「ワタシ アタマ イイデス」、「アナタ アタマ ロバ デス」と意味不明だが複雑な発音をできたりするから、アフリカの「Mali」で日本語を聞けたこっちとしては楽しくて仕方ない。

テリー村のみんな1フラニの女性 テリー村のみんな2

その怪しい日本語を話す若者のなかに「ガブリエル」というのがいた。この村出身のドゴンのガイドで、お金が無くなると「Bandiagara」や「Mopti」といった街に出て外国人ツーリストをみつけて商売をしている。「ひょうきん者、シモネタ好き、女の子は注意して」と書かれた日本人に貰ったレターを大切に持っていて、〈まだまだケツの青い奴やなぁ〉と思ったりしたが、そんな抜けたところが愛敬があって、これまで、ボク達に近寄ってきたガイドとは少しだけ違う。

それにしても、シモネタが本当に好きで、暇さえあればエッチな話にもって行こうとするから、「お前のことを今日から、ちんちんガブリエルと呼んでやる」と、出会ったその日に名づけてやった。

しかし、この「ちんちんガブリエル」、極々たまに心にグッとくることを言うことがあって、ボク達が水あたりか食あたりをして、どうにもこうにも、なにもかも食べられなくているのを見て、「ユー ダメ デス」、「アフリカ デ タベナイト、アフリカ ニ タベラレマス」などと教えてくれたり、今日で最後だからと、断崖のうえに案内してくれと頼んだときも、つい3秒前まで、いつもの下世話なシモネタと「ユー、 トモダチ。 プレゼント、 ギブ ミー」ばかりだったのに、その断崖のうえに登ったときだけは、村の歴史やしきたり、風習以外は話さなくなり、ほんの少し見直しかけたが、「ココハ スゴク シンセイ ナ バショ デス」と言ったすぐ側で、小便しだしたのでやっぱりかとやめた。

ひととおり見てまわり、明日はいよいよここを発つから見納めにと、岩の上に立ちとまり、しばらく、眼下の[Teli」村と、地平線の向こう側まで広がるサバンナと、すぐ側で夕日に照らし出された倉庫群をじっとじっと眺めたときばかりは、ガイドがしつこかったことも、食あたりしたことも、飯がまずかったことも、「ちんちんガブリエル」が、そこで小便したことも、みんなみんな全部忘れて、〈こんなきれいで、ゆっくりした村に一度住んだら、何処へも出たくなくなるやろなぁ〉と、ボクの横で、すっきり満足そうな顔をしいる彼のことが、なにやら、ものすごく羨ましく、ホントに羨ましく思えた。

テリー村の倉庫群

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