おはな日記(29) by Ryu

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Written;2003/12/21 Ryu---Tanzania---

●Tanzania<雑感>
《Malawi(国境)~Dar es Salaam》
◇ゴリラとマサくんに「ほな、ダルエスでな!」と別れを告げて、先に国境を越えることにした。このままいっしょに走っても良かったが、時速30キロのゴリラが気を使って可哀相に見えて、またボク達も早く日本に帰るチケットを予約しないとなんとなく落着かない。昼過ぎ国境に到着してからタンザニア側で入国手続きをしているともの凄いスコール。「こりゃ、ガーナ以来の大雨。走ってなくて良かった」と、どんぶり返した様に降る雨を窓の外からじっとみる。

◇知らずのうちに、また標高があがっていた。なんとなく肌寒く感じて走っていると右側にバナナ畑、左側に茶畑と奇妙な景色。山を切り開いてここらの農民が段段畑に植えているのがバナナで、恐らく政府が管理しているのが茶畑だ。もしかして、静岡でもバナナができるんじゃないかと、つまらんことを考えながら泊まる宿を探して走った。

◇タンザニアは物価が安い。なにより宿代が安い。ダブルまたはツインの部屋が4ドル、5ドルだから日本円なら500円前後でいい部屋に泊まれる。ただし、ボク達がダルエスに向けて走ったような田舎の村では、スワヒリ語を話さないとなかなか泊めて貰えない。一度なんかは「部屋はあるか」と英語で尋ねて「ない」の一言で終わってしまって、どうなることかとたいそう落ち込んだ。アフリカで、もしかするともっとも強い言語のスワヒリ語を話す人々には、英語が必要ないから話さないのか、植民地時代の嫌な思い出から話さないのか、とにかく英語は通じない。

◇ボク達が泊まった宿のなかには、「こら、どーみても売春宿やな」と思える宿も幾つかあった。たいがい、宿には「バー」か「レストラン」がついていて、そこは宿泊客以外でも使える場所で町の人も自由に出入りができる。そしてその中に若い女性の姿もみえた。農村のみるからに貧乏村では、おしゃれをしたい年頃だから、食うに困ってどうしようもなく、そんな理由からなのか、それが、旅行客やトラック運転手を相手に自分を売る女性たちだった。ビールを飲む男の横に寄ってきて、交渉が始まり成立すると部屋に2人で入っていく、そんな姿を幾度となく目にした。スワヒリ語ではどういう意味だが、彼女のことを「マラヤ」と呼ぶらしい。「春を売る」のはどこの国でも同じだが、この言葉がもともとここにあった言葉かどうかは疑わしい。

◇ダルエスではしばらくビーチのキャンプ場に滞在した。始めは街に遠くて大変だと思っていたが、そのうち、なんとなく気に入って結局、ここでマサ君を迎えて1週間も滞在した。2日目にちょうど満月の日がやってきて、インド洋の向こうから上ってきた月を見ることができた。強くて黄色い光を放つその月は、海の色まで黄色く染めて海面が揺れるたびに、その色は濃くなったり薄くなったり。これできっと見納めになるアフリカの満月が、ここで見れてよかったもんだと嬉しくなった。

◇ダルエスには日本の援助で建てられた魚市場があると聞いていた。「鯛?イカ?エビ?マグロ?」。行ってがっかりした。ここに買いに来る日本人が結構いるのか、仲買人がボク達をみると嫌というほど日本語で声をかけきて、その言い値が高い。「日本の方が安いやんけ!」。結局、渋々小さな鯛を2尾だけ買って帰ったが二度と行くかと腹に決めた。誰が教えたのかあの値段。50円で腹いっぱいに食える国で1000円の魚はないだろう・・・。

◇キャンプ場のビーチで寝転がっていると向こうから、麻袋に何かを入れたおじさんがやってきた。中はなんだと聞いてみると「カニ」だった。大きなカニで、日本で見る「ワタリガニ」に良く似た姿形だが爪だけが異様に大きい。甲羅が手のひらより少し小さな奴を2匹買ってゆがいて食べた。うまかった。最高にうまかった。爪も足の付け根の肉も甲羅につまったミソも全部うまかった。ちなみに値段は2匹で100円。あの市場ならこの10倍の値段がする。

◇まったく、ここは油断もスキもない。1週間滞在したビーチのキャンプの隣でやすんでいたカナダ人カップルのテントで強盗未遂事件がおきた。とんでもなく大きな声で「ヘルプ!!!」、「ヘルプ!!!」の雄叫びに、ボクは驚き、跳ね起き、飛び出した。「ド、どないしたんや?」と聞くと何者かが自分たちのテントの中に入ってこようと入り口のファスナーを開けられたとか。幸い「ヘルプ」の雄叫びで賊の方が驚き逃げ出したから、未遂で終わってよかったがまったく油断もスキもないというか、こんなに賑わっているキャンプ場でよく強盗する気になったもんだと関心したりする。そして翌日、小心者のボクは、腹筋、腕立て、スクワット、浜辺を走って久しぶりのシャドーボクシングで万が一に備えることにした。

◇まったく馬鹿ばっかりで困る。暇つぶしにマーケットでも行こうと二人して出た。アフリカの市場にしては整然として「なかなかのもんじゃ」と関心したが、人でごった返すところとか、魚に肉に野菜に果物が混ざって腐った異様な匂いはどこも同じだなぁなどと、呑気に見物していると、「おまえ、俺の足を踏んだな!おい!」と行き成りイチャモンをつけられる。「こっちは、それがどうした」と強気で睨み返していると、何やらポケットをゴソゴソするヤツがいる。「こら、なにさらしてけつかる!」。グルのスリだった。とっさに手首をつかんでひねって、ワン・ツーパンチをお見舞いしてやればこれに懲りてと相手も思ったかもしれないが、なんせ人で人でそれどころじゃない。結局、人ごみの中に逃げられる。「糞ったれが」と興奮したが少し落ち着き、周りをみると何やら視線が気になった。「よくやられなかったな」とみんなニコニコこっちをみてる。おいおい、知ってるんなら助けんかい。

《正しい仕事の進め方》
日本人経営だからと、それに甘えた自分たちが悪かった。

ちょっとしたことで、タンザニアのダルエスに行けば日本行きのチケットとバイクのシッピングが、その日本人経営の旅行代理店で出来るらしいという情報を得た。

街に着くなり、そこを訪ねチケットの手配とシッピングの相談を持ち掛けた。生憎、そのとき逢いたかった社長は週末まで不在で、ボク達の相手はタンザニア人の男性がしてくれた。紳士的で親身になって話を聞いてくれた。好感のもてる人だった。ボク達はその話をつめるために4、5日通い、そしてその社長の帰りを待った。

「どこで、シッピングしてくれるって聞いたの?」。ボク達が挨拶をするなり、斜かに構えたその社長が返した言葉がそれだった。握手もなく名刺を差し出してもくれなかった。結局、ボク達は日本にシッピングができる会社を紹介だけしてもらい、あとはボク達の力でシッピングをすることにその場で決めた。

ボクはこの旅行代理店のことや、この社長のことをこれ以上書くつもりはない。

紹介してもらったシッピング会社は散々だった。予定していた船がダルエスの港に入港したことでさえ知らないそんな会社だった。アフリカだからと大抵のことは我慢できるようになってはいたが、こればかりは驚いて開いた口もふさがらず、しばらく放心状態で、照り付ける日差しのなかじっと地面を見続けた。

このシッピング会社の社長はタンザニア人で、その部下が大失敗こそしたが、この人も紳士だった。ボク達が直談判をするために社長室に入り事情を説明したときのこと、顔色を変えてその社長は動きはじめ、方々に電話をかけ日本行きの航路を持つ商売敵のシッピング会社をあたりはじめた。そして、昼過ぎ。ボク達のバイクは商売敵のシッピング会社に移されて次の便を確約された。

部下のミスをその場でリカバーするその仕事の進め方に驚いた。仕事の出来る人間に日本人もアフリカ人もないんだと、そのとき初めて気がついた。小さなミスでもミスはミス。それを補うために指示をだしてメモをとらせる。「あなた方の途中まで進めたシッピングの自社での支払いは、私が出します」と、自らの財布から100ドル札を取り出しこう言った。

「人と人との信頼関係を保つ上でお金のことは後回しです。・・・・・。普段なら、こんな小さな仕事は引き受けないのに、なぜか引き受けました。・・・・。私は良い出会いができてうれしく思っています」。

最後の最後、日本に戻る直前にこんな勉強ができるとは思ってもみなかった。

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